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【前編】「グローバルに通用する」より、世界から日本に向く「矢印」をキャッチアップできる人財を育てる|(一社)フォースウエルネス/(株)東京山側DMC代表 宮入 正陽さん

東京の西多摩地域をリブランディングした「東京山側」にて、2024年1月に株式会社東京山側DMCを設立した宮入正陽さん。連載の前編では、宮入さんの生い立ち、自然や師匠との出会いといった、「東京山側」で地域課題解決に取り組む前の歩みをお伝えします。

目次

祖父と母は希代の「おせっかい」でした

小さい頃から、何かを見るにつけ、こうした方がいいんじゃないか、そうすれば人が喜ぶなというのがよく浮かんでいました。たぶん、母の血だと思うんですよね。母は希代の「おせっかい」な人でした。利益率が決して高いとは言えない食育の分野において、生産者を何よりも大切にしながら事業を行っていました。母を見ていると、常に人のため地域のために本当によく動いていたので、母に認めてもらいたい、母を超えたいと、僕の中では自然と思うようになりました。
さかのぼると、母方のおじいちゃんも僕にとって偉大な存在でした。苦学生で九州から出てきて、歯医者になり、一代で大資産家になりました。祖父もまた、患者だけではなく、やってくる人に手を差し伸べる「おせっかい」な人でした。たとえば、遠方からやってくる親戚だと名乗るよく知らない人まで全部世話をしていた。苦学生の食事や住むところ、結婚や就職まで面倒を見ていたそうです。だから、うちのおばあちゃんは、料理を家族の分だけ作るようなようなことはなく、大人数の分しか作れなかったらしいんですよ。
祖父の葬儀のことは、幼い頃の出来事ではありましたが、今でも鮮明に覚えています。家のあった杉並区方南町の環七まで、800m近くの列ができていて、夜中まで参列者が訪れていました。母も、僕も、「おじいちゃんの徳貯金」で生かされているんだろうなって、日々感じますね。

祖父や母の影響は偉大でした。ところが、僕が大切にしている「女性や子どものように社会的に弱い立場の人を守れる人でありたい」という姿勢につながるかといえば、祖父や母のおかげですなんてきれいな話でもないなと、自己分析をしています。
僕の父は、大手企業の重役だった祖父が設立した会社を継いだ二代目経営者でした。当時は高度経済成長の真っ最中で羽振りが良かったのですが、道楽に興じ浪費家だった父は会社を倒産させました。僕は川村幼稚園に通っていましたが、経済的な理由で幼稚園を中退しました。母の怒りは相当なものだったと思います。けれど、僕にはいつも「ケセラセラだよ、なるようにしかならないから」と話していました。この考えは今の僕にも生きていて、来てもいない不安に足がすくむくらいなら、まずはやってみようという姿勢を大切にしています。「焦りは私欲。急ぐは志」というのは僕が作った言葉で、自ら言い聞かせています。子ども時代に父の姿勢を見ていたので、「こうなってはいけないな」という思いが強いんですよ。父は言ってみればおじさんだったわけで、強い立場ですよね。だから、おじさんたちがちゃんと守れば救えるはずである弱い立場に置かれた女性や子どもを大切にしたいという思いにつながりました。
僕は裕福な家に生まれて悠々自適にぼーっと過ごしていたのではなく、父の姿を見てきたので、周りにどうしても厳しくなってしまうんです。このままいたらこうなっちゃうぞっていうのが見えてしまうから。僕が細かくあれこれ言ってしまうところも「おせっかい」と言えますね。

あまりにも偉大なNo.1たち

尊敬する人については、祖父と母以外にも、実は四人の師匠がいます。僕の中には、師匠たちが暑苦しいくらいに君臨していますよ、困ったことに。あまりにも偉大なNo.1たちがいたので、自分の可能性を信じきれない時期がありました。環境保護のレジェンド山本教雄(やまもと・のりお)先生、ベトナムでの医療活動によりアジアのノーベル賞と称されるマグサイサイ賞を受賞した眼科医の服部匡志(はっとり・ただし)先生、僕が高校卒業後に働いた一社目の会社である発酵と醸造の株式会社の代表の片山雄介(かたやま・ゆうすけ)先生、そして、重要無形文化財総合指定保持者であり、能楽師である大倉正之助(おおくら・しょうのすけ)先生です。
※註:大倉先生については、次回(後編の記事)にてご紹介します。

山本教雄先生は、生まれた頃から家族ぐるみで付き合いのあった自然環境保護のレジェンドであり、志賀高原のドンでした。志賀高原の土地開発やオリンピックをめぐっては、当時、世界一の資産家堤義明と唯一ケンカできる男であったという逸話も残っています。C.W.ニコルが来日したとき、山本先生に師事したという話でも知られています。
山本先生は、志賀高原漁業協同組合の組合長として、スキー場開発やホテルの建設ラッシュで河川環境が荒廃した時期に、在来種であるイワナの保護を訴えました。さらに、地元が待ち望んでいた長野オリンピック招致に向け、スキー場の環境整備のアドバイスをするといった功績を残しました。山本先生は、人間ごときが自然を壊すことができない、自然にはおのずから治癒する力があるという、自然保護の本質を見抜いていました。
山本先生は、僕のことを「ハル」と呼びながら手をつないでくれて、本当にかわいがってくれました。家族で先生のところを訪れると、母は近隣のホテルに宿泊していましたが、僕は先生の山小屋に泊まりに行き、ネイチャー経験をしていました。
山小屋にはちゃんと川が下という水洗便所がありました(笑)。大きな切り株のテーブルに、コーヒーの香りが漂っていて、ストーブがある。使う水はすべて山の湧き水と沢の水です。自然の冷蔵庫を目にしました。「ハル、たぬきが来たぞ」という声に誘われて、間近で見たこともありました。
だから、小さい頃から大自然のなかに溶け込む経験はしてました。言語化はしにくいのですが、どうやって自然の声を聴くか、土の味を知るかというのも自然に身につきました。母から教わったこととも重なりますが、加工して命が削られた食べ物よりも、自然のままの食べ物をいただくのが大切だということも、肌で感じていました。大自然の暮らしでは、あらゆる動植物は有限なので、食べ物や道具など形を変え、命が最大限に繰り返し用いられるという「循環」という考えに触れることができました。「循環」こそがすべてだと思っています。人のために力を尽くせば巡り巡って自分の幸せを高めることにつながるという僕の人生観の基礎になりました。
山本先生は長野オリンピックの閉会式の3日後に亡くなりました。不思議ですよね、ちゃんと見届けてから逝ったんです。

志賀高原の大自然


山本先生の「循環」の話は、情けは人のためならずということわざがあるように、人間関係においても大切な考え方だと思っています。眼科医である服部匡志(はっとり・ただし)先生は、僕に「利他の精神」を教えてくださり、「循環」という考えとともに僕の指針となっています。
服部先生は、2002年からベトナムにて失明の恐れがある患者に対する医療活動を行っていたことが評価され、2022年にはアジアのノーベル賞とも言われるマグサイサイ賞を受賞しました。一流の技術を持ちながらも、自身の技術を惜しみなく伝え私財を投じている服部先生の姿勢はまさに純粋そのもの。利他の精神とはこういうものであると僕は学びました。僕自身、服部先生と交流があり、嘘をつかず見栄を張らずに取り組む姿勢が大事であると先生は口酸っぱくおっしゃっていました。
僕自身が100%の利他を実現できているかというと、そうは思っていません。しかし、少なくとも言い続けること、同様に、目指すことが重要だと考えています。それから、利他の精神にも見返りが必要だと思っています。自分の幸福度が上がり、良い人とつながり、チャンスが増え、人からも認められるということです。

高校を卒業して、慶應大学に落ちた僕は、他の大学だったら行かないぞと思いながらバックパッカーをしたり渋谷で粋がっていました。転機になったのは、発酵と醸造の株式会社片山の代表取締役である片山雄介先生に出会ってからです。自然食やオーガニックを築いた日本の最たる方です。片山先生のおかげで、当時やんちゃだった僕は醸造業界で社会人として仕込まれることになりました。
微生物の未知なる力や生産者の強さに衝撃を受けて、「わー、自分ってちっちぇー」と、自分が見てきた世界の小ささを思い知りました。すぐに気持ちが切り替わりました。地味な仕事も多かったので、正直なところ、渋谷で遊んでいた仲間には見せたくないなと思うほどでした。3年半真面目に取り組んで、やりきったと思えるまで辛抱強く勤めました。

微生物の世界から経済の荒波へ

勝ち負けの世界に飛び込む

高校卒業後に3年半、株式会社片山という発酵と醸造の世界で働きましたが、微生物の世界とは正反対の業界に身を投じたいと考えました。微生物の世界と、ベンチャーや金融業界といった勝ち負けの世界の両方を経験して、六方良しの世界を実現したかったんです。

渋谷にある人材系のベンチャー企業株式会社プラスアルファでは、親会社の株式上場を経験しました。さらに、2007年から2年間にわたり、新潟にて、外資系保険会社にて営業に携わります。

金融の世界でどん底を経験

新潟では、外資系保険会社を独立し、仲間とともに保険代理店を立ち上げました。ところが、35歳のときに組織内で別の事業での裏切りがあり、個人再生に追い込まれました。

それまでの僕は自分自身を「金融のプロだ」とうそぶいていましたが、結局保険の売り子でしかなかった。会計と財務を分かっていなかったので、足元をすくわれてしまったんですね。ふと周りを見渡すと、自分のような境遇にある社長が周りにごまんといました。思い返せば、10 代の頃、バブル崩壊で中小企業の倒産をたくさん見ていて疑問だったんですよね。社長ってもっと万能ですごい人だと思ってたんですよ。でも、自分の身をもって知ったんです。社長は業界のプロではあるけど、財務のプロではないということに。
もし、地域の中小企業の経営者たちがいなくなってしまったら、地域は崩れてしまうだろう。これはまずいなと。会社が立ち直れるように支援したいという思いが、のちにM&Aを学ぶ動機になりました。

自らの挫折から企業再生に至るまで話す宮入さん

自らの価値観で企業再生へ

新潟に住んでいた頃は青年会議所に所属していたこともあり、東京に戻ったのは40歳を過ぎてからです。40代半ばで、都内でM&Aのプロの方に出会い、資料から何から何までもらって、「宮入君、M&Aに対する感性がすごくいいから、やってみたらどうだ」と言われて、一年間その人について学びました。自分の紹介でM&Aの案件を仕込んで、その方に渡して、パートナーとして一緒にやりました。
しかし、次第に、M&A業界の手数料ビジネスに違和感を抱き始めました。財務をしっかり立て直せば、会社を立て直すことができるんですよ。だから、M&Aをやって手数料をいただくことが目的になってしまい、その会社の経営者が事業を再建する機会を逸することになってはいけない。そう考えるようになったので、パートナーとして一緒に働いていた方とは袂を分かちました。
そして、2016年にM&A、事業再生、新規事業開発を行うファイナンシャルアドバイザーとして株式会社を設立しました。 この事業は今でも続けています。

後編では、東京都あきる野市に移住し、株式会社東京山側DMCの設立に至るまでをお伝えします。

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この記事を書いた人

ライター、インタビュアー。国際基督教大学(ICU)卒業後、NECへ入社。政策渉外部へ配属され、中央省庁を顧客とし、国家予算を使った大規模プロジェクトの調整役として関与。その後、人材開発サービス事業部へ移動し、研修企画や運営設計に携わる。2022年に品川区から『東京山側』へ移住し、兼ねてからの夢であったライターへと転身。都内研修企業オウンドメディアの記事執筆、地域新聞社での記事執筆、NPO広報誌の記事執筆、『東京山側』で地域課題解決に従事する方へのインタビューなどを行っている。

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