東京サマーランドを背に、住宅街の小道を車で進んでいくと、ログハウスが見えてくる。ぐるりと囲んでいるのは、ぶった切った電柱が入っていて人がかがめば入れるほどの狭いトンネル。減災防災クリエイターの八櫛徳二郎さんが好奇心のあまり自らの手で建ててしまった自宅と、救助活動の訓練場だ。八櫛さんは、最年少で特殊部隊という経歴を持ちながら、個人で日本初の民間レスキュースクールを立ち上げた業界の異端児でもある。公務員として前代未聞の減災防災クリエイターの知られざる物語である。
年 | 主な出来事 |
1995 | 東京消防庁に入庁。 |
1998 | 減災防災クリエイターとして勉強会を立ち上げ、救助活動の学術的な研究を始める。 |
2016 | 特定非営利活動法人 全国救護活動研究会(NPO RIRO)を創設。 |
2023 | 東京消防庁を退庁。 一般社団法人 西多摩減災・防災ネットワーク、一般社団法人 消防救助技術開発(FRTD Japan)の二団体を設立。 |
――幼い頃から、消防士になりたいという夢があったのですか。
小学校で、将来の夢を書いたりするじゃないですか。ずっと消防車になりたいと書いていました。子どもの頃は、消防車になれると思っていたんですね。あるとき、先生に「消防車にはなれません、消防士にならないといけないよ」と言われました。消防士になる必要があると気づいて、目指すようになったんじゃないかと。
――消防車になりたかった、ですか。おもしろいですね。消防士になってからも、消防車への憧れは感じていましたか。
かっこいいとかではなく、(消防士として採用された後、配属前に初任教育を受ける全寮制の)消防学校に入ってからは、ひたすら必死って感じですね。消防学校では、寮に入って、当時は一年間厳しい訓練を行いました。現場に出てから「止まれ」って言われて止まれないと危ないですよね。だから、「右向け」って言われたら全員が右を向けるような教育を受けるわけです。消防学校では、仕事に対する向き合い方を徹底的に身につけて「消防士」となっていきます。
消防学校で厳しい訓練に耐えながらも、私は猛烈な知識欲に突き動かされていました。「勉強しなくちゃ」なんていうきれいな言葉ではなく、昔から、知らないことは調べて覚えたいという、強い願望が根底にあります。
――消防学校の訓練中に心が折れることはなかったのですか。
心が折れたことは全くないですね。おそらく自分の特殊性だと思うのですが、それくらいでは心は折れない。消防・警察・医療関係者へのメンタルヘルスの講義でお伝えしている内容と同じなのですが、少し努力すると少し褒められる。すると、褒められたことがエネルギーになって、もう少し努力できる。つまり、他の人よりも少し努力すると自然と褒められるシステムが出来上がっていく。どんどん心の栄養が補充されながら努力できる。周囲から、「あの人は人一倍努力しているよね」と言われる状態でも、心の栄養が枯渇しない。だから心が折れない。私の場合、自然とそのサイクルが身についていたんです。
心が折れないというのは、怒られたときも同様です。怒っている人に、「どこが違ったのですか。どこが一番イラっとしたのですか」とすかさず質問してしまいます。怒られてしまったという気持ちよりも、「なぜこの人はこんなに怒っているだろう」という好奇心が勝ってしまう。消防学校時代だけではなく、消防士になってからもずっと同じです。
初めての火事現場では・・・
――消防学校を修了した後のお仕事について教えてください。
上野消防署に配属されて、消防士一年生が始まりました。既に消防学校で一年間かけて基礎技術を身につけているので、配属されたときには消防署で一番動ける人間みたいな感じで。とても喜んでもらえました。「一番動けるのが来たよ。消防学校を出たての八櫛さんの持っている知識が一番最先端だから、みんなに教えてくれよ」みたいな雰囲気でしたね。
――八櫛さんにとっての初めての現場は、どのような雰囲気だったのでしょうか。
消防士になって2ヶ月くらい経ったときに、火事があり出動しました。5軒ほど手前から、煙でなにも見えないんですよ。到着すると、見えない煙の中にホースを伸ばして入っていく。腕を伸ばしたら指先がかすむような場所を、「(火元は)どこだどこだ」と言いながら、どんどん進みます。白い煙が黒い煙になってきて、「もうちょっとだ、もうちょっとだ」と言って、近くまで行くと、火が吹いている家がある。「ここに入っていくのか」と思いましたよね。
――「ここに入っていくのか」と思いながらも、落ち着いて任務をなさっている姿が思い浮かびました。
消防学校で火災時の対応を身につけていたので。火事が発生したら、「あれやってこれをやって。次はホースを伸ばして何とか横に寄せて、戻して、別のホースとつないで、コックが閉じているのを確認して」と、ダーッとやることが決まっている。それをずっとやりながら行きます。怖いとか思うところもありますけども、次から次へとやるべきことをやって、その流れで入っていくという感じです。
――先ほどおっしゃっていた「消防学校の一年間で消防士になる」というのは、火災でも動じないメンタリティーという面でも欠かせない過程なのですね。上野消防署には6年間赴任されていたとのこと。6年間で現場での裁量がどこまで上がるのか、また、どのように知識や技術を高めていったのかお聞きしたいです。
消防士の場合は5, 6年だと、まだまだ役職があるわけでもなく、あくまで現場の1人です。ただ、6年間で、基礎的な資格を取得しました。まずは、「救急標準技能研修」という教育課程を経て、救急隊として救急車にも乗れるようになるための標準的な技術を身につけます。
さらに、「機関技術」という消防車や救急車を運転して緊急走行をするための資格と、厚生労働省が認定する国家資格である「救急救命士」も取得しました。
あとは、「予防技術員」という、建物の消火設備や安全性を調査する資格も。毎年毎年何か新しい資格を取っていました。
――資格試験が目白押しですね。非番の日も資格の勉強で忙しく過ごされていたのですか。
そこがですね、私は違っていて。休みの日は、思いっきり遊んで、同時にとことん勉強もしていました。雪山に行ってスノーボードしたり、英語学校に行ったり。仕事一色というよりは、知識欲の塊で生きているだけなので。やりたいと思っていたスキーやスノーボードも、せっかくお給料をもらったのだから、インストラクターの資格取るところまでやりました。
幼い頃からおもちゃで遊ぶことよりも、ブリキのおもちゃの中を開けてもらってネジの構造を見るような、構造を理解したり作ったりするのが好きな子どもだったそうです。皮の財布は作ったら何十年も使えると聞いて、「実際にどうやって作るのだろう」と勉強をして、財布や鞄を手縫いで作りました。趣味で心の栄養を入れて、仕事で栄養を使うみたいな。自分の中でうまく回っているから、心が折れないですね。
最年少で抜擢された特殊部隊
――上野消防署の次はどこに赴任されたのですか。
その辺りからですね。怒涛の、とんでもない世界が始まるんです。上野消防署に赴任して6年経ったときに、日本で初めてテロ対策の特殊部隊が創設されることになりました。サリン事件のように毒ガスがまかれたり、放射性物質の混じった爆弾が爆発させられるといった事態にも対応できる特殊部隊を作ろうということになって。当時、東京消防庁は1万8000人いて、その中から特殊部隊で勤務できるのは45人。私は最年少で選ばれました。